還暦同窓会と僕の“ラ・サール讃歌”〈後編〉
この記事は11月13日に配信した〈前編〉に続く〈後編〉です。どなたでも読むことができます。サポートメンバー(有料読者)の皆さまにはすでに先行配信していますが、一部加筆し未使用の画像を追加しています。〈前編〉と合わせてご笑覧ください。
遅刻間際に駆け込むラ・サール生たち。42年前の卒業アルバムより
桜島一周「夜間行軍」の記憶
同窓会翌日の11月4日からは後続戦。まずは桜島一周サイクリング。桜島一周といえば恒例だった「夜間行軍」を思い出す。12月の夜、中1から高2までの全生徒がフェリーで桜島に渡り外周36キロをひたすら歩く。
鹿児島市街からフェリーで桜島へ
当初は単に歩いていたが、誰かが走ると我も我もと走り出し速さを競うようになって、とうとう距離的にほぼフルマラソンに近い“競技”になってしまった。「今年の夜間行軍はT君が一位」なんて記事をラ・サールタイムズに書いたような記憶がある。
夜間行軍について伝える40年以上前のラ・サールタイムズの記事
東京で街歩き会を率先する同級生Oが、還暦同窓会に合わせて当時を思い起こし桜島一周サイクリングをしようと提案。僕を含む計5人が参加した。桜島の外周道路は標高100メートル以上の高低差があり、還暦オヤジたちは無理せず電動アシスト自転車を借りた。
電動アシスト自転車で進む還暦自転車隊
夜間行軍と同じ時計回りでいざ出発。割と平坦な道路を10キロほど進むと最も標高差のある長い坂が待ち構える。電動でなければ早くもここで挫折したであろう。2キロほどで坂を登り切ると長い下り坂を爽快に下る。そこからはアップダウンの繰り返しだ。
桜島は見る方角により姿を変える
島をほぼ半周した地点に、火山灰に埋没した鳥居がある。大正の大噴火(1914年・大正3年)で高さ3メートルの鳥居が埋まり、被害の記憶としてそのまま保存したという。
大正大噴火で火山灰に埋没した鳥居
僕らが高2の時(1979年・昭和54年)の夜間行軍は途中で桜島が噴火し、危険だということで急きょこのあたりで折り返すことになった。
夜間行軍の折り返し変更を伝えるラ・サールタイムズの記事
鳥居の向かいにあるお店のチャンポンは、パプリカやレタス、トマトなどカラフルで目にも楽しく、桜島特産の椿油がたっぷり入っていてエナジーをチャージできた。
「椿の里」のチャンポンは桜島特産の椿油入り
店名も「椿の里」でメニューはチャンポンのみ。店の人の応対も心地よく、おみやげに一人2個の桜島小みかんまで頂いた。
「椿の里」のメニューはチャンポンのみ
そこから少し進むと大正大噴火で流出した溶岩により桜島が本土と地続きになった地点がある。さらに進むと冷えて固まった溶岩が露出した絶景の「有村溶岩展望所」に。
売店の女将さんから「どこから来たと?」と声をかけられた。「県外だけど中高を鹿児島で過ごした」と言えば地元の人はすぐわかる。
「ああ、ラ・サールね。あんたら桜島を行軍しちょったろ。今でもしよるとよ(今は日中)。この前もあんたらの仲間が来よって、あんTシャツみんな買ったとよ」
シャツの背中には「ぎをいわんこと」の文字。「理屈を言うな」「言い訳するな」という鹿児島弁だ。東桜島小学校のグラウンドには「東桜島魂 不屈の心」の文字。不屈の心がなければ大噴火を繰り返す桜島では暮らしていけないということだろう。
東桜島小学校にて
中学校では「自主 勉学 根性」のスローガンの「根性」だけ赤字で強調されていた。
東桜島中学校にて
コースの最後、見渡す限り固まった溶岩が広がる場所があった。中1の時、夜間にそこを歩くのは不気味だった記憶が蘇る。だが今はその光景はない。40年の歳月が溶岩の上を松林で覆ってしまった。
こうして休み休みで4時間かけて桜島一周を完了した。
フェリー桟橋そばの「桜島マグマ温泉」で汗を流した後、鹿児島中央駅西口の「吾愛人(わかな)」へ。ここで他の同級生たちと合流し、同窓会翌日も総勢12人の宴会となった。
吾愛人は本店が天文館で創業昭和21(1946)年の老舗郷土料理店。奄美では愛人を「かな」と呼ぶ。客人を迎えるに愛人に対するが如く真実と誠意を尽くすという意味が込められているそうな。ここで同窓会幹事の苦労話などを伺いつつ芋焼酎がすいすい進み、最後の記念撮影では僕一人卓上に突っ伏してつぶれていた……。
飲酒停学は“通過儀礼”?
連戦の最終日、5日は開聞岳登山。これもOの発案だ。
かつて中2で霧島登山(高校からの入学者は高1に)、高2で開聞岳登山というのが秋の遠足だった。だが僕らは中2の霧島が台風で中止。高2の開聞岳でOは山に登らず麓でサボって仲間とダベっていたという。だから還暦同窓会を機に反省?登山を果たそうというわけだ。
いざ開聞岳へ
それを聞いてふと思ったのだが、僕は開聞岳登山の記憶がない。なぜだろう? と友人SとIの二人と2日に呑んだとき話をしたら、Sがきっぱりと「何言いよっと。わいはあん時停学喰らっちょったろうが!」(鹿児島弁でわいはお前、おいが俺。もっともSがこの時本当に「わい」と言ったか普通に「お前」と言ったかは定かではない)
……そうか、確かに僕は高2の時、飲酒がバレて1週間の停学となり実家に帰った。どおりで登山の記憶がないはずだ。停学になった状況も忘れていたが、Sによると僕は高校時のバンド仲間Nと一緒に寮の自室で呑んでいた。Nが帰った後、僕だけ見つかったが部屋にはグラスが2つ残っている。誰と呑んでいたのか? 当然取り調べで厳しく追及されたが「僕一人で2つのグラスを使って呑みました」と極めて苦しい言い訳を貫いた。何だか森友事件を巡り国会で「取引文書はございません」と白々しい答弁を繰り返した某財務官僚を彷彿とさせる。僕は同級生をかばったのだが、彼は誰をかばったのだろう?
Nはその直後の開聞岳登山で事情を知る仲間に突っ込まれ、みんなの荷物を持たされて登ったそうだ。その話は今回初めて聞いた。なお、Nはこの時は停学を免れたが、卒業式の前夜、Sの家で僕と3人で卒業前夜祭を挙行中、酔ってタバコを買いに外へ出て自販機の前でパトカーに見つかった。それで卒業延期となり卒業式に出られず、1週間後に一人卒業証書を受け取った。「最後に帳尻を合わせる立派な奴だ」と語らったことを覚えている。
あの頃、飲酒停学は“通過儀礼”のようなもので、僕はさほどの重みを感じていなかった。
卒業アルバムにこんな写真を平気で載せるくらい酒と停学は日常感覚だった(N教諭は生活指導担当)
さらにSによると、同郷の友人Iも僕と同時期に停学を喰らい開聞岳登山に参加していないとのこと。停学明けに“出所祝い”をしたのがバレてまたも停学と相成った、同級生の間では有名なIの“2連続停学”事件だ。そんなアホな話で旧友との呑み会は盛り上がるのだった。
こうして登山に参加しなかった経緯を思い起こし、僕も反省を深めようと?山に登ることにした。
開聞岳の贖罪?登山
開聞岳は薩摩富士とも呼ばれ標高924メートル。というと大したことなさそうに聞こえるかもしれないが、薩摩半島の南端で海のすぐそばに聳えているから登山口からの標高差は900メートルほどある。東京の高尾山の倍以上の感覚だ。しかも富士山以上に火山そのままの姿で登りはかなり急だ。
登山口にある開聞岳の地図
還暦登山の参加者は計6人。元山岳部の同級生S(上記の友人Sとは別人)をしんがり、登山が趣味の同級生I(彼も上記Iとは別人)を先頭に、山腹を覆う樹林の木陰を進む。
砂利に足を取られ、岩場を這い上がりながら登ること2時間20分。
ようやく山頂にたどり着いた。
そこは360度パノラマが開ける。南に太平洋、東は指宿温泉と錦江湾の向こうに大隅半島がかすむ。はるか北に鹿児島市街。西はカツオの水揚げで有名な枕崎港と池田湖を見下ろす。
山頂から西の枕崎方面を望む。右上に池田湖が見える
山頂で喰らう握り飯はうまい!
だが実は下りの方が大変なのだ。足を何度も滑らせ膝を笑わせながら全員何とか麓にたどり着き、贖罪?登山を終えた。
登山道に咲く石蕗(つわぶき)花言葉は「困難に負けない」
その後は近くの「たまて箱温泉」で疲れを癒す。開聞岳と太平洋を見晴らす絶景の露天温泉だ。あとはビールがあれば言うことなし。
かくて還暦同窓会をはさみ前後5日間の関連行事をすべてつつがなく終えたのだった。無事に感謝。
たまて箱温泉の顔はめ
翌6日、九州新幹線で帰路についた。車内で一人鹿児島ハイボール(宝山の強炭酸割り。鹿児島中央駅で買える)を傾けつつ、還暦授業で配られたK先生の資料に目を通す。
80歳元地理教師の熱い思いがこもった資料
1971(昭和46)年、まだ1ドル360円だった時代、初めての旅でイスラエル、エルサレム、ヨルダン川西岸を訪れている。分断の壁を見て北アイルランドを想い、当時まだあったベルリンの壁を想起する。
そしてフランスでブドウ畑を見た時のこと。
「旅最大の驚きはブドウが地面からそのまま生長したブドウの木に実をつけるのを見た時です。ですからブドウはかがんで腰を落として収穫することを知ったのです。ブドウの木は棚を水平に枝を伸ばし、ブドウの収穫は上を向いてするという先入観があったのです。地理教師失格です。この時から実物を実際目で見なければ駄目だとなり、海外への旅を始めたのです。」
K先生の資料より
そこに綴られていた旅と授業へのたぎる情熱。こんな熱い思いであのスライド授業をしていたとは当時わからなかった。
恵まれた境遇を自覚して生きる
ラ・サールという学校を出たことに僕は長いこと複雑な思いを抱いてきた。中学から親元を離れ私立学校に通っていたこと、そこから難関大学をめざすこと自体、経済的に恵まれていたこと、それを当たり前に思っていたことを物語る。
高校の生徒手帳とラ・サールの肖像画
NHKに入り記者となって世の現実を見るにつれ、そんな経歴が負い目のように感じられるようになった。だから学歴に触れたくなかった。
生来人づきあいが苦手なたちで、在学時に親しいと言える友人も限られていた。だから同級生との交流にもあまり熱心ではなかった。
僕が編集した最後のラ・サールタイムズ。右上の発行責任に「相沢冬樹」とある
でも最近になって受け止め方が変わってきた。振り返ってみれば人生の原点とも言える出来事がいろいろあったじゃないか。
中3の時、カト寮のすき焼きパーティで「僕ら大学生くらいに見えるかな?(んなワケないが)」とドキドキしながらビールを買い出しに行き、酒呑み人生が始まった。
悪友Nに誘われ同級生5人でバンドを組み、ストーンズやパンクを知り、ロック人生が始まった。
高校新聞部で、ベトナム戦争後のボートピープル(小舟で国外に脱出した難民)が鹿児島にたどり着いたと聞き、新聞部仲間のギタリストSらとつたない英語で取材に挑んだ。ベトナム政府について尋ねたら「hard type government」との答え。それをラ・サールタイムズの記事にしたら他校の新聞部員に「こんな政治的な記事を書けるんですか?」と驚かれ「この程度のことを書く自由もないの?」と逆に驚いた。こうして記者人生が始まった。
ボートピープルに取材したラ・サールタイムズの記事
忌野清志郎が歌うとおり“いい事ばかりは ありゃしない”。どこの学校でもそうだろう。
高校生のとき大好きになったRCサクセションのLP「PLEASE」ジャケットと歌詞カードより
でも間違いなく多感な時期をあの学校ですごし、友との体験に恵まれ、人格を育くんでもらった。自分が育ってきた経験は変えられない。学歴を言いたくないというのも自意識過剰なんだろう。恵まれた境遇を自覚しながら自らの来歴をあるがままに受け入れよう。卒後42年たって、やっとそう感じられるようになった。
これが、僕の“ラ・サール讃歌”です。
桜島を背景に校庭で卒業アルバムの写真撮影。桜島は僕らの生活の一部だった
先日お送りした前編について多くの方から感想やご意見をいただいております。いつもお読みいただきありがとうございます。様々な見方があるのだと改めて感じます。
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