還暦同窓会と僕の“ラ・サール讃歌”〈前編〉

鹿児島のラ・サール学園は中高一貫の進学校として知られる。そこを卒業したことは僕にとって長らく人に言いたくない“黒歴史”だった。それが卒後40年余りたって次第に考えが変わってきた。なぜそんな風に思ってきたのか? このたび還暦同窓会が開かれたのを機に自分の気持ちを見つめ直してみた。
相澤冬樹 2023.11.13
誰でも

義務教育の基礎を築いた教育者ラ・サール

ラ・サール学園には校歌がない(鹿児島のこと。函館ラ・サールにはある)。

代わりにラ・サール讃歌が歌われる。

永遠(とわ)の名 讃えんラ・サール 愛の導師 真理の楯  智性のしるべ 師道の誇り 永遠の名 讃えん
ラ・サール讃歌より

「愛の導師」という歌詞からもわかるように、ここで歌われるラ・サールは学校ではなく人物だ。ジャン=バティスト・ド・ラ・サール

学園内にあるラ・サールの胸像。背後はブラザーハウス(修道院)

学園内にあるラ・サールの胸像。背後はブラザーハウス(修道院)

17~18世紀フランスのカトリック司祭で教育者。フランス革命前で身分制の厳しかった時代、平民の子どもたちの教育に力を入れ、貧しい家庭の学費は免除し、現代の義務教育の礎(いしずえ)を築いたとされる。彼自身は貴族だったが当時の貴族社会には受け入れられなかった。

しかし時代とともに評価が高まりカトリックの聖人に列せられ、すべての教育者の守護聖人とされた。その名を冠した修道会は世界各地で1000以上の学校を運営している。ラ・サール学園もその一つだ。中高一貫のミッションスクールの男子校で、学内にブラザーハウス(修道院)があり、歴代校長はブラザー(修道士)が務める。

僕らが在校時の姿そのままのブラザーハウス

僕らが在校時の姿そのままのブラザーハウス

日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが最初に上陸した鹿児島の地で1950(昭和25)年創立。まだ戦後の占領下で日の丸がご法度だった時代。設立にあたったフランス系カナダ人のブラザーたちはそんなことにお構いなく日の丸を掲げて開校式を行ったため、当時の鹿児島の人々に感銘を与えたという。通常の教育課程より前倒しで授業を進めるとともに毎週のように行われるテストによって学力を高め、早くから進学校として名をはせた。僕らの頃は1学年250人ほどのうち浪人含め医学部に100人前後、東大に100人前後進学していたと記憶する。医師の子弟も多かった。

そのラ・サール学園の高校を1981(昭和56)年に卒業した生徒たちが今年までに相次いで還暦を迎えた。これを機に還暦同窓会を開こうという機運が盛り上がり、11月3日、鹿児島に100人近くが集まった。僕も参加者の一人だ。これを機にあの学校について考えたことを記しておきたい。

左の体育館は在校時の姿のまま

左の体育館は在校時の姿のまま

宮崎の小学生にラ・サール進学を勧めたのは…

僕は鹿児島の隣、宮崎で1962(昭和37)年に生まれ、小学校まで宮崎で過ごした。今回、鹿児島に行くならまず宮崎に立ち寄らねば、と10月31日に乗り込んだ。3歳の頃から遊んだ近所の幼なじみ(地元でコンビニ経営)の案内で宮崎一の歓楽街、西橘通りへ。地鶏もも焼ききゅうり塩もみ芋焼酎。故郷の夜はやっぱりこれじゃなくっちゃね。

宮崎名物 地鶏のもも焼きは芋焼酎によく合う

宮崎名物 地鶏のもも焼きは芋焼酎によく合う

次いで老舗バー「続人間」へ。この店の一角に一篇の詩が掲げてある。作者は詩人の赤木衛さん。僕の小学6年生の時の担任教師だ。

バー「続人間」に掲げられた赤木先生の詩

バー「続人間」に掲げられた赤木先生の詩

この赤木先生が2学期のある日、僕に問いかけてきた。

「相澤くん、君はラ・サールという学校を知ってるかい?」

まったく知らなかった。でも赤木先生に勧められるままラ・サールの入試を受け、中学から親元離れて寮に入り進学することになった。

僕は赤木という名の方に人生を大きく左右される運命にあるようだ。

ラ・サール中学入学時の僕(クラス写真より)

ラ・サール中学入学時の僕(クラス写真より)

神話が今に生きる土地

翌11月1日の朝、東京から空路宮崎入りしたラ・サールの同級生3人と空港で合流。彼らとは長らくご縁がなかったが、ここ最近、同級生の街歩き会に参加するようになって交流が復活した。

レンタカーでまず宮崎神宮へ。神武天皇が東征前に居所を置いていたと伝わる地だ。そこからすぐ北にある小高い丘の「八紘一宇の塔」を訪れた。

八紘一宇の塔

八紘一宇の塔

日本書紀に起源をもつ言葉で、全世界を一つの家にするという思想。紀元2600(西暦1940)年、時の近衛内閣が唱え、戦時中の大東亜共栄圏のスローガンとされた。この塔もその年に建てられている。戦後すぐ八紘一宇の文字が削られたが20年後に復元された。我が生まれ故郷、天孫降臨の地、日向の国(宮崎県)では今も神話が生きている。ちなみに我が母校、宮崎市立大宮小学校は、この地が神武天皇ゆかりの地であることを地元の人々に教えるため明治初期に設立されたと校内の石碑に記されている。

昼はチキン南蛮の発祥とされる店の一つ「おぐら」へ。どでかいチキンにたっぷりのタルタルでボリュームが半端ない。

「おぐら」のチキン南蛮

「おぐら」のチキン南蛮

そこから日南海岸を一路南下し、青島の鬼の洗濯岩、鵜戸神宮、飫肥城址、野生馬が暮らす都井岬を巡る。

都井岬の野生馬

都井岬の野生馬

夜は宮崎県の南端、串間市で同級生の実家に泊めていただく。漁の解禁間もない伊勢海老をはじめ山海の珍味で歓待を受けた。

伊勢海老の歯ごたえがたまらない

伊勢海老の歯ごたえがたまらない

地元の芋焼酎「松露」の一升瓶が軽々と空になる。

中学3年間をすごしたカトリック教会寮

翌2日。レンタカーで串間から鹿児島県に入る。志布志、鹿屋と大隅半島を南下し、本土最南端の佐多岬へ。

本土最南端、佐多岬

本土最南端、佐多岬

戦艦大和はこの沖を通って沖縄へと出撃し坊ノ岬沖で撃沈された。鹿屋基地を飛びたった特攻機もこの上空を通過して出撃したのだろう、と思いを馳せる。

昼時に通りかかった南大隅町「ときわラーメン」のチャンポンが思いがけずうまかった。

「ときわラーメン」のチャンポン

「ときわラーメン」のチャンポン

大隈半島の根占港からフェリーで錦江湾を渡り薩摩半島の山川港へ。薩摩富士と呼ばれる開聞岳がよく見える。

フェリーから見る薩摩富士こと開聞岳

フェリーから見る薩摩富士こと開聞岳

山川から車で北上し、鹿児島市南部、谷山地区のカトリック谷山教会へ。ラ・サールから徒歩15分ほどのこの場所に中学生の寮が併設され「カト寮」と呼ばれていた。カトリック信者だった僕はここで中学の3年間を過ごした(高校からは校内の寮)。カト寮はもう運営されていないが、建物は当時のままのたたずまいだ。

画像左がカトリック谷山教会。奥の建物がかつてのカト寮。その間に食堂と厨房があった

画像左がカトリック谷山教会。奥の建物がかつてのカト寮。その間に食堂と厨房があった

当時、夜中に腹をすかせた寮生がよく食堂の厨房に忍び込み、炊飯器からごはんをどんぶりによそって勝手に食べていた。冷蔵庫から生卵を取り出し卵かけごはんにしたりして。しまいには厨房のフライパンで目玉焼きを作ったりして。さすがに寮の調理人のおじさんに叱られた。

鹿児島市街にたどり着いたところで、そこまで一緒だったメンバーと別行動に。ラ・サール時代に親しくしていた数少ない友人二人、鹿児島のS、宮崎で同郷のIと合流した。おはら祭で賑わう市内の繁華街・天文館で、うなぎを味わいながら芋焼酎を痛飲。

旧友3人で痛飲した「分家うなぎの隆美」

旧友3人で痛飲した「分家うなぎの隆美」

締めは老舗の「池田バー」で鹿児島の香りを堪能した。ここで彼らと交わした会話が5日の行動の伏線となる。

桜島の小ミカンを使ったクラフトジン。池田バーで

桜島の小ミカンを使ったクラフトジン。池田バーで

“自由”の価値を教わった学校

3日はいよいよ本戦だ。同窓会を前に市電(市営の路面電車)で母校のある谷山に先乗りして歩き回った。

市電の谷山電停前はすっかり様変わり

市電の谷山電停前はすっかり様変わり

だが変化が激しく往時の面影が乏しい。谷山電停前の海軍屋ラーメンと喫茶嵯峨はかつてラ・サール生が足しげく通ったものだが、今では影も形もない。

卒業アルバムに姿をとどめる海軍屋ラーメンと喫茶嵯峨

卒業アルバムに姿をとどめる海軍屋ラーメンと喫茶嵯峨

ラ・サールそのものもすっかり様変わりし、僕らがいた頃の施設はブラザーハウスと体育館、プールくらいしかない。

しかし、学校そばの「おふくろ食堂」の建物は健在だった。食べ盛りで寮飯ではもの足りない僕らは、しばしば寮を抜け出しこの食堂に通った。すでに営業はしていないが、女将さんが洗濯物を取り込んでいたので話ができた。

「店は20年くらい前にやめたとよ。ごめんね~」

かつての「おふくろ食堂」

かつての「おふくろ食堂」

おふくろ食堂といえば、Kという同級生の名を冠した“K定食”を思い出す。店が定めた定食ではなく、Kが毎度「焼き飯にチキンライス」というW炭水化物のいかにも高校生らしい高カロリーメニューを頼むからその名がついた。注文を受けると店の人は最初に焼き飯を二人分作って一人分を取り分け、残りにケチャップを入れてチキンライスにするという裏技を使った。Kが「手抜きだ」と言いながらもうまそうに平らげていたのが忘れられない。

学校では、夭折した同級生Sくんの木の前が集合場所となった。大学時にバイク事故で亡くなり、追悼で植樹された木が校内で育っている。

同期ではHくんも4年近く前に病で亡くなり、鹿児島市内に墓地がある。ゆかりのある同級生たちがこの機会に墓参を果たしたそうだ。

参加者が集まり記念写真を撮ると、いよいよ同窓会の緒戦、80歳の元地理教師K先生による還暦生徒たちへの授業。K先生といえば旅好きでたびたび世界各地を巡り、帰国後に写真をスライドにして見せる授業を思い出す。ウィーンかどこかの街角のエロ本売り場を見せて「ナニです」と紹介した記憶が鮮烈だ。

80歳元教師による還暦生徒への授業

80歳元教師による還暦生徒への授業

思えば変わり者の教師が多かった。授業で一切教えず生徒に好きな本を自由に読ませていた国語教師。陸軍中野学校出身で諜報活動もしていたらしく授業中に時々その片鱗を語る英語教師。中1の倫理の授業で岡林信康の反体制ソング「友よ」を歌わせたブラザーの教師。高2の時はやはりブラザーの校長自ら聖書の歴史を教える授業があり、そこでも歌好きの校長がよくクリスマスキャロルを歌わせた。

教師がそんな具合に自由気ままにやっているから生徒も気ままに高3になっても文化祭体育祭に熱中していた。当時卒業生の半数ほどが浪人していたように思う。「受験勉強は卒業後に予備校でするもの」という感覚すら僕にはあった。

ではラ・サールの教師は何を教えていたのか? それは……人は好きなことを好きなようにやるのが一番だ、という“人間賛歌”を身をもって体現していたのではないかと今になって感じる。もちろんきれいごとに収まらない諸々のこともあったけど、あの学校で“自由”の価値を教わったのだと改めて想う。

高校校舎前でサッカーに興じる在校生たち

高校校舎前でサッカーに興じる在校生たち

颯爽と夜の闇に消えた80歳元教師

続いて、桜島を正面に臨む与次郎ヶ浜の鹿児島サンロイヤルホテルに移動し、“本戦”の懇親会。

K先生のやや長めのあいさつ(司会の同級生Y曰く「同窓会が終わってしまうんじゃないかと思った」)に続いて乾杯! さて何から呑むかと卓上のドリンクメニューを見ると、ビール、焼酎、ハイボール、ワイン、カクテルと各種あれど、日本酒はない。そりゃあ、ここは“かごんま”やからね。

日本酒はない!

日本酒はない!

鹿児島の友人Sの結婚披露宴が名門、城山観光ホテル(今は城山ホテル鹿児島)で催された際も、卓上にずらり並んだガラス製のおちょこがすべて芋焼酎のお湯割りで、日本酒はなかったことを思い出す。

今回、ドリンクコーナーには魔王、村尾、森伊蔵、伊佐美、三岳と芋焼酎の銘酒が一升瓶でずらりと並ぶ壮観だった。しかし100人近い還暦オヤジが我も我もと押し寄せ、あっという間に空になった。やはり先手必勝だ。

しばしの歓談に続きクラスごとに順次全員が壇上に上がってごあいさつ。といっても事前に近況報告を集めて全員にメールで配布されていたため、名前を名乗るだけで式はスムーズに進行した。

余興に高校時代の同級生バンド「エレクトリックひょうたん島」が登場。ディープ・パープルなど懐かしのロックを中心に演奏を披露した。ボーカルK、キーボードY、ベースS、ドラムK、ギターSの5人編成。ベースSの娘さんもスペシャルゲストとしてボーカルでサプライズ参加し、あいみょんの「君はロックを聴かない」を歌い上げた。聴けよ!と思うが、ロックを聴かない彼女への情熱を歌ってるから仕方ないね。娘さんがこの曲をバンドにリクエストしたのが参加のきっかけだったという。ロックバンドで年とともに一番衰えが出やすいのがボーカルだと言われるが、K(おふくろ食堂のKとは別人)のボーカルは伸びのある声で高校時を思わせる艶を感じさせた。メンバーはこの日のためZOOMで練習したのだとか。最後は学内で“クラプトン”の異名をとったギタリストSの演奏に合わせ「ラ・サール讃歌」の斉唱で締めくくった。

ラ・サール讃歌斉唱。男子校のわびしさ、女子がいない(涙、いや笑?)

ラ・サール讃歌斉唱。男子校のわびしさ、女子がいない(涙、いや笑?)

思えば12年前、卒業30周年の同窓会では、僕は鬱病に沈み状態が思わしくなかった。同窓会の後、事情を知るギタリストSが「大丈夫か? 2次会に行くけど来るか?」と声をかけてくれたが行けなかった。それからいろいろあって“寛解”状態となり、元気を取り戻して大阪のNHKで司法取材を担当していた時に森友事件に出会い、NHKを退職し、今はフリーで仕事をしている。変化の激しい12年だった。

懇親会が終わり、80歳のK先生を送り届けようと声をかけたら、「いいから、自分で帰れるよ。3年後(卒業45周年)に会おう!」と言い残し、颯爽と歩きながら夜の闇に消えていった。僕らはその後ろ姿を見送って、三々五々、夜の天文館へと繰り出していったのだった。《後編に続く》

夜の闇に颯爽と消える80歳元教師

夜の闇に颯爽と消える80歳元教師

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